かずしげブログ
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渋川善助遺書
2017-07-22
なぜ、会津若松の渋川問屋の長男が、民間人でありながら2.26事件に関与して
処刑されたのか?
ネット情報によると、渋川善助は会津中学で”神童”と呼ばれ、陸軍士官学校予科に
進み、御前講演を行うほどの逸材でした。
その後、紆余曲折があり明治大学法科に学び、国家主義運動に関わり、昭和7年に
杉田省吾、西田税、福井幸、加藤春海等とともに維新同志会を結成。
当時、日本は大恐慌以来の不況に苦しみ、東北では凶作により娘を身売りするほど困窮していた。それを解決できない政治家、また、そうした民衆の苦悩を省みず、一部財閥と軍部の首脳が癒着し、贅沢三昧の生活をしていることが善助には許せなかった。
「民の苦しみは陛下のお心を悩ますこと」と、義憤から事件に加わった。
渋川問屋憂国の間
2017-07-22
会津若松市阿弥陀寺
2017-07-22
会津若松の七日町駅にはおしゃれな駅カフェががあり、その中には会津17市町村のアンテナショップ&カフェがあります。その駅前に阿弥陀寺があり、境内には戊辰戦争の東軍墓地や新選組斎藤一の墓、鶴ヶ城の遺構である御三階があります。
*東軍墓地:戊辰戦争で戦死した会津藩士など東軍兵士1281体を会津各地から集めて埋葬した墓地。西軍中心の明治政府の命令で、墓標には「戦死墓」としか刻まれていません。
*御三階:かつて鶴ヶ城本丸内の庭にあり、望楼あるいは密議所に利用されていたのではないかと言われる木造3階建の貴重な建造物。東軍墓地に埋葬された戦死者を慰霊するために阿弥陀寺の本堂として明治3年に移築されました。
*斎藤一:新選組副長助勤の刺客で、戊辰戦争では土方歳三が会津を離れた後も最後まで会津藩とともに戦いました。明治以降は藤田五郎と改名し、72歳で東京で亡くなりますが、遺言で墓は阿弥陀寺に建立されました。